は夕食を終えると、あわただしく風呂に入った。
はやく自分の部屋に戻りたかったのだ。
いつもの倍速で風呂からあがると、これまたあわただしく歯を磨き、ろくに髪も乾かさずに部屋へ戻った。
荒らされていたらどうしようという懸念を抱いていたのだが、そんな心配はいらなかった。
犬は大人しく毛布の上で伏せていた。 眠たそうに瞼を動かしている。
が夕食をとり、風呂からあがってくるまでの間、ずっと同じ格好でいたようだ。
犬という生き物は足が痺れたりしないのだろうかとは思った。




「眠い?」
犬に話し掛けても返事が返ってくるはずはないのだが、は犬の頭を撫でながら尋ねた。
「疲れた?」
犬はかすかに首を縦にふったように見えた。
とことん犬らしくない犬である。
はにっこり笑うと、犬を抱き上げて自分のベッドの上に乗せた。
「毛布より、ベッドの方がいいでしょ?」
タオルケットと毛布を犬の上に優しくかけると、犬は心配そうな瞳をに向けた。
ベッドを使っていいのか、ということだろう。
どこまでも犬らしくない。
人間の言語や生活習慣を理解しているのだろうか。
大きな犬なのでベッドは余っていたが、それでも大きすぎることはなかった。
小さな子供が寝ているのと同じくらいである。
「私は今日カンテツします!」
突然は右手を上にあげて叫んだ。
犬は突然の出来事に驚いたようで、体をびくりと震わせた。
「絶対ベッドを明渡さないでね!」
なるほど、が犬をベッドに寝かせたのは、自分が寝られないようにする為らしい。
犬は呆れたような目でを見上げた。
彼女は「この犬はオスか?」と独り言を呟きながら、参考書やら辞書やらを机の上に置いた。
「果たして今晩中に、去年一年分のレポートは仕上がるのだろうか!?」
犬はますます呆れたような目でを見上げた。
犬の視線に気付いたは、椅子を犬の方に向けて悪戯っぽく笑った。
「あんたのご主人はレポート溜めたりしなかった?」
が尋ねると、犬は重い瞼をゆっくり閉じて、また開いた。
この犬は人間の言っていることが理解できるらしい。
妙に賢い犬である。
不気味な気がしないでもないが、にとっては好都合のようだ。
機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、「賢いな」と適当なメロディーに乗せて言った。
「そかそか、犬が飼い主に似るっていうのは本当だね」
はにっと笑って椅子を机の方に向けた。
犬が飼い主に似ると言うのならば、万が一この娘に飼われてしまった犬は相当ひどい性格に
なってしまうに違いない。
きっと高級松坂牛を与えてもオーストラリア産の牛肉を食べたときと同じ反応を示すように
なるのだろう。
「さぁ、書こう!」
が気合をいれたとき、犬はすでに深い眠りに落ちていた。
毛布とタオルケットが、とても温かく感じられた。








は目覚し時計の音で目を覚ました。
時計の針は六時二十分を指している。
書きかけのレポート用紙と、明日までに提出といわれた英語のプリントが彼女の顔でプレスされていた。
結局、五つ書かねばならないレポートのうち、二つしか終わっていなかった。
自分がいつ寝てしまったのかも定かでない。
電気をつけたまま机につっぷして寝ていたので、眠りは浅く、疲れは取れていない。
ぼおっとする頭を二、三度叩くと慌てて制服に着替えた。
昨日の夜は髪を生乾きのまま放置してしまったので、髪形もセットしなければならない。
無造作に教科書とノートをカバンに投げ入れ、携帯電話をポケットにねじこんだ。
犬はまだ眠っているようだった。
あけようとカーテンにかけた手をとめて、は犬の頭を撫でると、静かに、しかし慌てて
階段をかけおりた。
そのの後ろ姿を、澄み切った灰色の目が名残惜しそうに見つめていた。




その日、は学校帰りにコンビニに立ち寄り、千円分の食糧を買い込んだ。
勿論犬に食べさせる為である。
店頭に並んでいたカツサンドを買い占めてしまう形になった。
レジのアルバイト店員は訝しそうな目をに向けていた。
いつもより二まわりほど大きなビニール袋をさげて家に帰ると、今度は母親が訝しげな目で、
「そんなにたくさん食べ物買ってどうするのよ?」と尋ねた。
「勿論、昨日の犬に食べさせるんだよ」
が言うと、母親はきょとんとした顔をした。
「犬って何?」
「何言ってンの、お母さん!とうとうボケたの?」
は母親を一笑すると、階段を駆け上がって部屋のドアをバタンとあけた。
犬の姿はなかった。
の表情から笑みが消えた。
思わずコンビニのレジ袋を放り投げた。
中の食べ物が潰れたような音がしたが、それどころではなかった。
慌ててベッドの下や机の下などを探したが、どこにも見当たらない。
ベッドの上には犬にかけておいたはずの毛布とタオルケットは丁寧に四つ折りにされて置いてあった。
部屋の中をぐるぐると歩き回り、は階段を駆け下りた。
「お母さん!!犬、どうしたの!?保健所とか連れてった?」
「だから、犬って何なのよ?」
母親は心配そうな表情で我が娘を見つめた。
「あんた、熱でもあるんじゃないの?犬犬って、犬なんかいるわけないでしょ?」
「昨日、あたしが拾ってきたじゃん!」
「拾ってくるわけないでしょう、あんたが!何寝惚けてんの?」
どうやら本気で言っているらしい。
最初は「とぼけやがって」と憤慨していただった。
自分を騙してからかっているのだと思っていたが、それにしては度が過ぎる。
段々背中が寒くなってくるのを感じた。
母親は心配そうに「ノイローゼ?大丈夫?」との頭を撫でた。




茫然自失状態で部屋に戻ると、机の上で何かが光っているのが見えた。
机に近寄ると、明日提出の英語のプリントの上に、年季の入った十字架のネックレスが置いてあった。
カーテンの隙間から漏れ込んでいる夕日の光できらきらと光っている。
それを手にとって、日の方にかざすと十字架は七色の光を発した。
机に目を戻すと、英語のプリントには綺麗なアルファベットで、うっすらと答えが書き込んである。
そして、その端っこに、
「Thank you very much. Sirius Black」
とこれまた綺麗な筆記体で書かれていた。




は十字架のネックレスを握り締めて門の外に出た。
あたりを見回したが、黒い犬の影も形も見えなかった。
橙色の空を、大きな鳥のような生き物が、南の方へ飛んでいった。








あとがき
なぜかウチのサイトのシリウス君は出番が少ないです。
そして、なぜいつも夢らしくないのでしょうか。
ちょっといつもより描写に拘って書いてみましたが、どうでしょうか?
感想等お待ちしております。
読んでくださって、どうもありがとうございました。
H16.4.5 Shion Halu