春麗らかなある日の午後のことだった。
突如、空から何やら黒い物体が降ってきた。
隕石か、それとも宇宙人か、と思わせるその謎の物体は、地面に叩きつけられる直前にふわりと浮き、
何かに置かれるように、とある民家の門の前に着地した。
謎の黒い物体は隕石でも宇宙人でもない。
小汚い犬だった。
異常なまでに痩せ細ったその犬は、しばらくの間がくがくと四足を震わせながら立っていたが、
とうとう力尽きた様にその場に崩れ落ちた。
空を見上げると、春の日差しを一身に受けながら、大きな鷲のように見える生き物が東の方へ飛んでいった。
ほどよく温まったアスファルトの上で、黒い犬は心底心地良さそうに目を閉じた。
無機的な黒く硬い物質の上で、犬は疲れ果てたように意識を手放した。
犬は突然聞こえた人の声で目を覚ました。
起き上がろうと思っても、四肢に力が入らない。
あまりにも疲れすぎていた。
観念したように声のする方をみると、十六、七歳と思われる少女がこちらを瞠目していた。
あたりは既に日が沈み、暗くなっていた。
温かかったアスファルトもひんやりし始めてきている。
「どうしようか?保健所?…はもうやってないよね。あー、犬なんて触れないし」
少女は一人でぶつぶつ言いながら小走りで家の中に入ると、二、三分してから再び小走りで戻ってきた。
薄暗くてよくは見えないが、膝上十五センチほどのスカートを履いている。
上半身は白いブラウスの上にブイネックのセーターのようだ。
制服のようにも思えたが、あんなに短いスカートの制服を犬は見たことがなかった。
少女は犬のそばに膝をつくと、三回大きく深呼吸をし、恐る恐る犬を抱き上げた。
犬が大きいので持ちにくそうだったが、大きさの割には軽いらしく、拍子抜けしたらしい。
驚いたように犬を見ると、すぐさま目を逸らした。
「うぁー、犬なんて大嫌いなのよ、動くなよ?」
犬が言語を理解できるはずもないのだが、少女は苦虫を噛み潰したような表情で犬に命令した。
犬は灰色の瞳で少女を見つめていたが、ゆっくりと瞼を閉じて、また開いた。
まるで分かったと言わんばかりの行動だった。
満月の光に見守られながら、彼女達は家の中に入っていった。
「誰が捨てたのさ、こんな大型犬!しかも黒くて怖いし、しかも人ン家の前だよ!?」
少女は器用に犬を抱えたまま両足で靴を脱いだ。
「ちょっと、ぶつぶつ言ってないで洗いなさいよ、その犬」
奥から聞こえた声に、少女はまたぶつぶつ言いながら犬を風呂場に持っていった。
「あんた、犬なんて洗えるの?」
彼女の母親と思しき中年の女性が洗面所にやってきて尋ねた。
面白がっているようにも聞こえる声だ。
「適当適当。お母さん、暴れたら取り押さえるの手伝ってね」
少女は犬をタイルの上にそっと降ろすと、シャワーを掴んで蛇口をひねった。
左手にお湯をあてて、温度を調節している。
「やーよ。お母さん、犬なんて触れないもん。あんたよく触れたね、あの動物嫌いが」
明らかに楽しんでいるような声で彼女は言った。
「何、この薄情者!触れんでしょ!」少女が怒鳴って母親をねめつけたとき、すでに母親は
洗面所から姿を消していた。
「最悪だよ、あの人!娘が犬に噛み殺されても構わないってワケ!?」
その少女の言葉に反応したように犬は少女を見上げた。
「いい?絶対に暴れるんじゃないぞ!」
少女は「絶対」の部分を異常に強調して灰色の瞳を睨みつけると、丁度いい温度になった
シャワーを犬の体にかけた。
目に入らないように気を遣っているらしく、恐る恐るお湯をかけている。
段々と毛の根元までお湯が浸透していく。
犬は気持ち良さそうに目を閉じた。
「犬って耳触られるの嫌いなんだっけ?お風呂嫌いなのってなんだっけ、犬だっけか?」
どうやら、この少女はハムスターと犬を勘違いしているようだ。
犬を飼ったことのない、特に犬嫌いの人間などはこの程度のものである。
犬好きの人間の中には、この世の人が皆犬を好んでいると勘違いしている節のある者もいるが、
そんなことは決してない。
ライオンやハイエナに恐ろしくて触れないのと同じような原理だ。
少女は犬の体全体にお湯をかけ終えると、女性用のシャンプーを四回プッシュして犬につけた。
「ほら、駅前に『犬シャンプー』とか書いてあるじゃん?平気だよね」
死ぬんじゃないぞ、と少女は低い声で呟くと、慣れない手つきで犬の体を洗い始めた。
「平気だよね」という言葉のあとに「死ぬんじゃない」というのは、いささか矛盾している。
犬は呆れたとも気持ちが良いともつかないように目を閉じた。
少女は犬の体全体にシャンプーが行き渡ると、「なかなかイケるかも?」と一人呟いて、
満足そうに頷いた。
再び蛇口をひねり、シャワーのお湯を出すと、少しは慣れてきたような手つきで犬の体に
ついた泡を洗い流していた。
「てーかさ、泡黒いし!どうよ、これ?」
怒ったように呟いた。
まるで飲む栄養ゼリーのコマーシャルのような科白だ。
すっかり泡も洗い流すと犬はいくらかきれいになったように見えた。
心なしか、倒れていたときよりも元気に見える。
「はい、サッパリぃ。OK!」
少女は大きめの白いタオルを洗面所の棚から取り出して犬の体をふいた。
犬はひたすら大人しくしていた。
少女のもつ「犬」というもののイメージとは大分かけはなれた「犬」だった。
少女に言わせてみれば、「犬」というのは獰猛ですぐ吠える生き物なのだ。
散歩をしている犬の中には、足に擦り寄ってくるものまでいる。
何度蹴散らしてやろうと思ったことだろうか。
最後にドライヤーで完璧に毛を乾かすと、少女は犬を抱きかかえて二階の自室に運び入れた。
「汚いとか文句言うなよ?一応入れるんだからいいでしょ。足の踏み場もないわけじゃないし」
そっと犬を床に降ろすと、毛布を引っ張り出して犬をその上に移動させた。
犬は毛布に顔を押し付けるようにして伏せた。
少女は犬の頭をポンと叩くと、「ちょっと待っててね」と言って慌てて階段を下りていった。
犬はしばらく少女の出て行った方を眺めていたが、大きな溜め息をつくと勢いよく毛布に顔を埋めた。
何だか犬らしくない行動に見える。
十五分ほど経ったのだろうか。
少女がまた音を立てながら慌てて階段を上ってきた。
手には浅いボールとビニール袋を持っている。
「ずいぶん弱ってるみたいだから、まずはこれだよね」
少女は犬の前に座り込むと、浅いボールを差し出した。
中には何やら黄色い液体が入っている。
なかなか不気味な色だ。
犬はゆっくり立ち上がると鼻を液体に近づけて匂いを嗅いだ。
見た目どおり、すっぱいような甘いような苦いような不気味な臭いがする。
犬が四足を曲げて伏せの格好に戻ってしまうと、少女は怒ったように言った。
「『肉体疲労時の栄養補給に』っていう医薬品なのよ!これ飲まないと、元気にならないよ!」
「そんな無茶苦茶な」、と言わんばかりに犬はしっぽをふって少女を見上げた。
「飲めっつーの!まずくないから!」
どうやらこの液体を飲まないことには他の食べ物を出さないつもりらしい。
このような飼い主に当たってしまった犬は不憫である。
犬は観念したように起き上がると、ちろとその液体をなめた。
次の瞬間、犬はものすごい速さで液体を飲み干した。
どうやら臭いの割には美味しい飲み物だったらしい。
あっという間にボールは空になった。
その速さに少女はしばらく開いた口が塞がらなかったが、
「ほらおいしいでしょ?この様御愛用のエスカップ!」
少女の名前は「」というらしい。
は犬の頭をぐりぐりと撫で、ビニール袋の中からサンドウィッチを二パックとお菓子を取り出した。
近くのコンビニエンスストアまで買いにいったらしい。
どうせならドッグフードを買ってくれば良いのに、彼女の頭の中には「犬は肉食」としか
インプットされていないようだ。
その証拠にサンドウィッチにはカツレツが挟まっている。
袋からそれを取り出すと、別の皿の上にのせて犬の前に出した。
「友達のトコの犬は松坂牛とか食べさしてもらってるらしいけど、まぁ似たようなモンだよね」
特別に入念に飼育され、良質で上位等級に格付けされている松坂牛と、国外産の肉で作られているであろう
コンビニのカツサンドを「似たようなもの」と称する彼女はどういう育ちをしてきたのだろうか。
かなり適当な性格の持ち主であることだけは間違いないだろう。
犬は、のが最後まで言い終わらぬうちにサンドウィッチにかぶりついた。
随分と器用な犬らしく、周りにパンかす一つ落とさない。
これもぺろりと平らげてしまった。
「スパルタ教育でもされてきたのか、コイツ?何日物食ってないわけ?」
は憐憫の情を込めた眼差しで犬を見ながら、呆れたようにもう一つのサンドウィッチの包みをあけた。
犬はそれも同様にものすごいスピードで平らげてしまった。
よほどお腹が空いているのだろう。
しかし、舌を出して次の食べ物をねだったりはしなかった。
これほどまでに大きな犬が骨と皮しかないくらいに痩せ細るには、どれくらい断食すればいいのだろうか。
精神的にもまいっているように見える。
「ちょっと待っててね。冷蔵庫からパクってくるから」
は慌てて階段を駆け下り、台所の冷蔵庫の中に顔を突っ込んだ。
あれだけお腹を空かせているならば、なんだって食べるだろう。
夕食の支度をしている母親が「やたらにあげちゃわないでよ」と言っているが、聞いていない。
とりあえず、ハムとフライパンの中にあった生姜焼きを三枚皿にのせて部屋に戻った。
犬は退屈そうに欠伸をしていたが、が戻ると急にしっかりした表情を見せた。
は優しく笑って犬の頭を撫でると、引出しからハサミを取り出した。
犬の前であぐらをかいて座るとハサミでテープと袋を切り、威勢良く皿の上にハムを出した。
「さあ、食いねえ食いねえ」まるで寿司屋のようにおどけて、右手で皿を指し示した。
二パック分のハムが皿に山盛りになっている。
ビジュアル的にはあまり良いものと言えない。
犬は上目遣いにを見ると、ハムにかぶりついた。
山盛りだったハムも瞬く間になくなり、勿論生姜焼きもあっという間に犬の胃袋におさまった。
は笑って、コンビニで買ってきたお菓子を皿にのせた。
犬は気遣わしげにを見た。
「これも食べていいのか」というように。
彼女は犬の視線が何を言わんとしているのか理解したように、笑って「それもあんたのだよ」と
言って食べるように促した。
「ホントにスパルタ教育でもされたの?犬らしくないね」
お菓子もかす一つ落とさずに食べる犬に向かっては呟いた。
妙に行儀はいいし大人しい。
「パトラッシュってこんな感じ?」
パトラッシュが行儀の良い犬だったかどうかは知らないが。
とうとう犬はお菓子まで食べ尽くしてしまった。
さて、どうしたものか。
冷蔵庫の中には、もうくすねる物がなかったし、七時をまわっているので、外に出ると親が煩い。
棚の中に入っているお菓子を全部取ってきてしまおうかとが立ち上がろうとしたとき、
犬がの袖口をくわえた。
引っ張っても犬は口を離さない。
「どしたの?この部屋には、もう食べるモンないよ」
が言っても、犬はを見つめたまま袖口を離さない。
は首を傾げた。
「…ここにいるべき?ってか?」
犬はその言葉に反応したように袖口から口を離した。
「あー…、もういらないとか!?」
がポンと手を叩くと、犬は四肢を立てて尻尾を振った。
済んだ灰色の瞳が肯定を意味しているかのように見える。
は座りなおすと犬の頭を撫でた。
犬は心地よさそうに撫でられるがままになっていた。