この世に「正義」なんてものがなかったら良かったのに―――――
リーマスの口から飛び出た真実は、俺にとって残酷極まりないものだった。
思わず我が耳を疑い、何も罪はない親友の襟首を掴んで問い質した。
親友は、同情したように俺を見つめ、静かに首を振った。
彼もかなりくたびれた様子だった。
俺がアズカバンにいた間に白髪も増え、随分と老け込んでいる。
リーマスの襟首から手を放し、俺はその場にへたり込んだ。
目の前には絶望が広がっていた。
あの夜と同じような、真っ暗闇の海が俺を飲み込んでいく。
「彼女―――は、死んだ」
は、ホグワーツ在学中に知り合った、掛替えのない仲間の一人だ。
彼女はジェームズの彼女であるリリーの親友という立場にいた。
ことあるごとにリリーはの自慢話をしていた。
自慢できる親友がいるというのは、本当に幸せなことだ。
そんな友達は滅多に出来ない。
幸せそうに話すリリーを見て、ジェームズが焼餅を焼いていたくらいだ。
「はね、可愛いのよ!口はちょっと悪いんだけど、頭も良いし」
リリーは無邪気に笑いながら、俺達に話した。
彼女にの話をさせれば、誰かが止めない限り延々と喋りつづけるだろう。
意外と照れ屋だったので、のいる前でその話をすることはなかったけれども。
というのは、聡明な少女だった。
余計なことばかり話していたが、肝心なところはきちんと心得ている、そんな少女だった。
勉強をさせれば人並み以上に出来るし、箒の扱い方も上手い。
外見も決して悪くなく、上の下といったところだろうか。
少々気の荒いところを除けば、これと言って劣っているところはなかった。
リーマスが狼人間だと告白したときの応対は忘れられない。
悲愴な表情で仲間に打ち明けている彼の肩をポンと叩くと、
「いいじゃん。他の人に出来ないことが出来るっていいことだもん、ね」
捕らえ様によっては「嫌味」とも取れる言葉だったが、が言うと純粋な気持ちに聞こえた。
リーマスはその言葉にこれ以上ないくらいの笑みを見せたものだ。
「付き合ってくれないか?」
俺が、そうに告白したのは五年生のときだ。
持てる全ての勇気を振り絞って告白した。
「友達」でいる時間が長かっただけに苦労した。
もしも断られたら、もう一緒にいることも出来なくなりそうな気がしていた。
「おう、いいとも!」
何だか某バラエティ番組の掛け声のような答えが返ってきた。
夕日に照らされて、彼女の顔はオレンジ色に輝いていた。
「また抜け出すのか?本屋、行ってもいい?」
お決まりの科白を返してきた。
俺は肩の力が抜けるのを感じた。
確かに、そういうことに関して鈍い節はあった。
まさか、「鈍いのの王道」な答えを返してくるとは思わなかったが。
「抜け出しても良いが、その『付き合え』じゃない」
は突然驚いたような表情を見せると、茹蛸のように顔が赤くなった。
「え、あの、『義理や交際上の必要から相手をする』の付き合うじゃなくて、
『交わる。交際する』の意味?」
「広辞苑でもそのまま覚えてんのか?」
俺は溜め息混じりに呟いた。
そう言えば、は読書が趣味だった。
そのジャンルは幅広い。
広辞苑を丸ごと一冊読み込んでいる可能性はなきにしもあらずだった。
真っ赤な顔を両手で包み込むと、ははにかんで俯いた。
「いや、あの…いいんだけど…」
「けど、なんだ?」
包んだ両手で彼女の顔を自分の方に向けると、困ったよう表情を見せた。
「私なんかで良いのか?シリウスに良いことはないぞ?」
妙にそう言ったの顔が切なく見えた。
思わず、俺はの唇にキスをした。
そうせずにはいられなかった。
橙色の夕日が、俺達を照らしていた。
ホグワーツに居た頃は、全てが鮮やかだった。
光り輝いていた。
あんなにも幸せな時間は、もう二度と巡ってこないだろう。
俺とは在学中、ほとんど全ての時間を共に過ごした。
本当に幸せだった。
皆が皆、笑っていたのだから。
この世に暗闇や絶望などというものが存在するということが、信じられなかった。
ホグワーツを卒業して暫く経つと、魔法界に暗黒時代が訪れた。
スリザリン出身の魔法使いが、名前と姿を変えて力をつけてきたのである。
元優等生は、その面影もなく、どっぷりと闇の魔術に浸かってしまっていた。
奴は、沢山の魔法使いを虐殺した。
罪もないマグルも殺していた。
何がしたいのか、俺は理解出来なかった。
「俺には、あいつの考えが理解できん」
コーヒーを片手に俺はぼやいた。
「奴の心に『正義』という言葉はないのか」
はまるで俺の言葉を無視するかのように「テレビ」を食い入るように見つめていた。
その頃、俺はマグル界でと共に住んでいた。
ヴォルデモートの二重スパイをやっていた頃だ。
しょっちゅう魔法界に戻ってはいたが、マグルの生活にも慣れていた。
の態度に少々腹が立った俺は、リモコンを使ってテレビの電源を切った。
突然画面が消えたことには驚き、クッキーを落とした。
落ちたクッキーは粉々に砕けた。
「…おいおいおい、シリウス君!今いい所だったんだよ!」
不機嫌そうに俺の前にある椅子に音を立てて座った。
杖を取り出して、落ちたクッキーの方に向ける。
「ヴォルデモートの心にないのは『正義』じゃないよ」
軽く杖の先を振ると、クッキーは小さな滓一つ残さずに消えた。
「因みに。『正義』というのは、『正しい筋道、または人がふみ行うべき正しい道』という意味ね。
荀子という中国の、戦国時代の思想家の教えです」
「だから?」
呆れたように俺が先を促すと、は少し困ったような笑顔を見せた。
「『正義』っていうのは、沢山あると思わない?」
「は?」俺は呆けたような顔をして、間抜けな返事を返した。
は真面目な顔をして言った。
「『正義』は、人の心の中にあるんだよ?つまり、それはその人の信じる道の上にあるのさ。
シリウスの信じる道にある『正義』と、ヴォルデモートの信じる道にある『正義』が食い違って
いるだけかもしれない」
あの頃の俺は、今よりももっと血気が盛んだった。
今なら受け入れられるかもしれない人の意見を、受け入れられなかった。
自分の信じる道だけが正しいと思っていた。
「じゃあ何だ?は奴のしてることが正義だとでも言うのか」
俺は低い声で込み上げる怒りを抑えるように言った。
「大量の人間を虐殺するのが、『正義』だとでも言うのか!?」
「さあ?」
はけろっとした顔をして答えた。
俺は、テーブルを叩いて立ち上がった。
カップが倒れて、中に入っていたコーヒーが流れ出た。
「ジェームズ達が死ぬかもしれないんだぞ!?」
「ああ、そうかもね。このままじゃね」
淡々と言葉を紡ぐに、俺は怒りを通り越して憎しみまで覚えた。
何故、自分の親友が死ぬかもしれないというときに、そんな冷静にしていられるのか。
お前にとって、ジェームズやリリーはその程度のものだったのか。
「ふざけるな!!」
「いや、ふざけてない。私はいつでも素敵に大真面目…」
「お前、ヴォルデモートの部下にでもなったんじゃねえだろうな!?」
俺の頭に、もう「理性」というものはなかった。
頭の血管が一本切れたかのように、俺は怒鳴り散らしていた。
「そうだろう!?」
は黙っていた。
何も言わず、手に持っている自分のコーヒーを見つめていた。
「何で何も言わない!?」
俺はの肩を掴んだ。
「まさか本当にそうなったわけじゃないだろうな…」
は何も言わなかった。
俺は乱暴にを突き放した。
その拍子では椅子から落ちた。
コーヒーが床にぶちまけられた。
「この…裏切り者…!」
俺は、倒れたを起こすこともせずに乱暴にドアを開けた。
「ピーターに要注意」
そんな言葉が聞こえたが、俺は振り返りもせずに後ろ手でドアを閉めた。
外には真っ暗な闇が広がっていた。
次の日の夜、ジェームズとリリーは死んだ。
満月が綺麗な夜のことだった。
アズカバンにいるとき、思い出すのはのことだった。
冷静に考えれば考えるほど、俺は自分が情けなくなった。
恨めしかった。
どうして、あんな酷いことを言ったのだろう?
彼女がヴォルデモートの配下につくわけがないのに。
そんなことは、誰よりも自分がよく知っているのに。
感情のままに怒鳴り散らした自分に殺意が芽生えた。
あのときの自分を殺してやりたい。
心の底からそう思った。
何度もの笑顔が浮かんだ。
だが、それはすぐに消え、残るのは最後に見せたあの哀しげな表情だった。
哀しげな表情、ということすらわからなかった。
どれだけ自分は愚かなのだろう。
後悔の念が、次から次へと押し寄せてきた。
今頃、はどうしているだろうか。
他の男と暮らしているかもしれない。
結婚しているかもしれない。
そんなのはどうでもいいことだった。
元気でさえいてくれれば、もうそれで良かった。
俺を恨んでいても、何でもいい。
そう考えると涙まで流れてきたものだ。
それなのに。
「は死んだ」
随分と老けた親友は、手際よくコーヒーを淹れてくれた。
廃人のように無言でカップを受け取ると、涙が流れてきた。
最後に、と飲んだのはコーヒーだった。
あのこぼれたコーヒーを、彼女は怒り心頭で始末したのだろう。
あんなにも愛した人に、何て自分は残酷な言葉を吐いたのだろう。
涙を流しながらコーヒーを見つめる俺に、リーマスは声をかけた。
「シリウス。は、君を信じてたよ」
「今更、そんな嘘で慰めなくてもいいぞ」
「本当だ」
リーマスは優しい声で言った。
「最後まで君を信じていた」
僕が信じていないことを知ると、鬼のような形相で掴みかかってきたよ、と彼は苦笑いした。
「『余計なこと言っちゃって、怒って…出てっちゃって…捕まって…』と泣きながら
言っていた。あんなに悲愴な顔した人間は見たことがない、というくらいだった」
『こんなことになるなら、あんな馬鹿なこと言わなければ良かった』
『きっと、私があんなこと言ったから、シリウスが捕まったんだ』
『彼が捕まったのは私のせいだ』
次から次へと涙が流れて止まらなかった。
が自分を責める必要など、全くなかったのに。
「結局、自分で自分を責めつづけた。僕が…ダンブルドアが宥めても、彼女はダメだった。
最後は君に謝りながら…死んでいった。…衰弱死だった…」
リーマスはその情景を思い出したのか、強く目を瞑った。
「何も食べず、何も飲まず…部屋に一人で倒れていた。
君と、ホグワーツで撮った写真を握り締めて、『ごめん』と…」
長い沈黙が漂った。
異常に暗く、沈んだ沈黙だった。
リーマスの鼻をすするような音が聞こえてきた。
彼も泣いていた。
「『正義』は一つじゃない、とは言った」
俺は涙を流しながら呟いた。
「ヴォルデモートなりの正義が、あるのかもしれない…と」
握っているカップが割れそうなほど、右手に力を入れた。
「確かにそうなんだ。俺の『正義』がある限り、奴にも『正義』があるのかもしれない。
俺から見れば奴は『極悪人』だが、奴から見れば俺も『極悪人』だろう。
彼女はそれが言いたかった。奴の心に正義はないのか、と呟いたときにそう言った。
どちらが正しいのか、そんなのは誰にも決められない、と彼女は言いたかった。
だから、敢えてどっちつかずの言動を見せた。
内心は穏やかだったわけじゃないだろうに、彼女は…冷静な態度でいた。
冷静になれば、何かが見えてくるかもしれない、と…」
最後の方は、もう声にならなかった。
元々、は聡明な人間だった。
俺が一番よく知っているに違いない。
言葉が足りないことも、俺はよく知っていた。
表現が下手なだけで、少し考えればすぐに分かったことなのに。
「なりの『正義』があったんだろう。
彼女は、諍いが嫌いだったからな…」
リーマスが懐かしむように呟いた。
は諍いが嫌いだった。
俺達とセブルスが衝突したときも、口八丁でその場を丸くおさめていた。
思い出せば思い出すほど、涙が止まらなかった。
俺は彼女を殺してしまった。
俺を信じてくれていた人を。
俺を愛してくれていた人を。
静かな部屋の中に、俺のすすり泣くような音が虚しく響いていた。
あとがき
シリウス君、出番多いですね!(笑)
今度こそ彼が報われる話を書きたいものです。
何だかいつも報われなくて…可哀想になってきました(爆)。
このテーマは「正義」について、です。なんだかつまらない話になりましたが。
読んで下さった方、長いのにご苦労様でした。
大感謝でございます!!本当にありがとうございました。
感想等、下さると涙流して喜びます。
H16.4.6 Shion Halu
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